日本一の金屏風を製造している零細企業です。
古くさい商品と思われてますが「屏風の浅井」は見事に生き返させました。
● 祝い事の場に欠かせない金屏風
結婚式、襲名披露、叙勲報告などの、『和』の祝い事には必ず金屏風が用意されている。屏風が明るく反射するため、主賓を華やかに見せることができるからである。また、会場での主賓の席を目立たせる効果もあるのだろう。結婚式場、ホテルなどの宴会場では、金屏風は必需品である。
名古屋に所在する浅井(浅井貴之社長)は、近代的な手法で金屏風を製造し、業界でトップになった企業である。
● 歴史のある古い会社
現在は法人化されている浅井には百二十年余の歴史があり、愛知県では戦前から『屏風の浅井』として有名な老舗である。初代が安政年間に金銀細工店を創業し、明治期に金銀細工から金箔製造に転業し、さらに、金屏風の製造に転業した。貴金属に関連した業種であるので、転業が容易であったのであろう。大正期になると日本画、掛軸、額縁も取り扱うようになったが、屏風の製造過程で表具師と交流することがあったからである。明治、大正と時代が変わるにつれ、本業に接近した他の事業に上手く鞍替えすることができたのが事業を長続きできた要因であろう。
昭和の始めになると、三代目は職人を分業化させて量産し、価格を引き下げることに成功した。松阪屋百貨店に納品し、同時に、月賦販売も行いって当時としては革新的な販売を実行した。浅井が金屏風の販売に力を入れたのは、地元の風習が影響していたようだ。戦前の愛知県では嫁入り道具に金屏風を加えることが多く、他の地域に比べて需要が大きかったからだ。
● 新型金屏風の開発
伝統的な金屏風は、建具屋が杉や檜の木枠の内部に枡目のように縦横の桟(さん)を入れた格子を製作する。この格子の表面に表具師が下張りと上張りをし、表面に金箔を貼って完成する。襖の製造と似ていて、昔はどこの地方でも、地元の表具師が注文によって生産していたらしい。このような本物の金箔を使用する金屏風は「本金」と呼ばれ、六尺六曲と呼ばれる標準品で三百万円以上もする。現在でも製造されてはいるが、工芸品の領域であって高価であるため、滅多に注文されることはない。
戦後になると、金箔の代わりに真鍮の箔を貼り付けた「洋金」という安価な金屏風が出回るようになった。平成期の初めからは、金色の塗料を印刷した色紙を使用してさらに安価な「金紙」と呼ばれる金屏風も製造されるようになった。これら三種類の金屏風は表面の素材が相違するが反射率は同じようなもので、遠くから見たら素人では区別することは難しい。現在は「金紙」の屏風が主流となっている。
さて、国内の生活様式が洋式化するに伴い、業界全体での金屏風は売れ行きが年々落ち込むようになった。受注生産で細々と製造していた個人の表具師は、とっくの昔に生産を止め、金屏風を生産している企業は浅井を含めて全国で五社にまで減ってしまった。
業界が落ち込んでいった頃に、会社員をしていた五代目の現社長が親の仕事を継ぐ時期にさしかかってきた。商品の特殊性から売り上げがジリ貧となっていくのは止めようがなく、今までとは違った経営戦略が求められた。この頃、同業者の中に、「金紙」を量産して安価に販売し、業績を大きく伸ばしている企業があることを知った。業界は縮小していくが、良質な商品であれば同業者のシェアを奪い、十分に採算が取れるという実証であった。この企業の戦略がヒントとなり、衰退していく業界であっても、業界の中で日本一となればそれだけの利益を上げることができるはず、と現社長は確信した。
すでに先行している同業者に打ち勝つには、その企業の商品よりも魅力がなければ売れない。このため、軽くて丈夫で、定価を十万円以下にして顧客が買い易い金屏風が目標となり、従来とは違った発想で製造することにした。伝統的な木や紙を使わず、樹脂製のボードの周囲を黒色のアルミの枠で囲い、ボードの表面に金紙を貼り付けた構造とした。外観は従来の金屏風と全く同じであり、量産が可能となった。だが、新素材を使用したことから思わぬ問題点が出た。ボードと金紙の吸湿度が違うため、湿度が変わると屏風全体が反ってしまう現象が発生した。また、アルミ製の枠は柔らかいために、枠の角が欠け易い問題もあった。試作品を出荷してみると半分以上が返品され、返品の処分に困ったこともあった。外枠の構造を変え、ボードに向く新素材を見つけては試作を繰り返すことになった。二年余り続いた開発で湿度の影響を受けず、丈夫な枠組みの構造を持つ「ストロングライト」が開発でき、平成五年から本格的に販売を開始することになった。
販売では問屋も大切にしたが、利益率の高い直販を心掛けることにした。ホテル、旅館、結婚式場などの需要家にダイレクトメールを発送したり、業界誌に広告を掲載してみたが反応は薄かった。偶然にホテル、ブライダル関係の見本市が存在することを知り、平成九年から見本市だけで勝負することにした。見本市では直販の商談を行ったが、同時に社名を業界の人達に宣伝することも力を入れた。浅井の名が企業に知れると、金屏風を購入するときに納品業者に浅井を指定してくれるからだ。現在では直販が六割、問屋経由が四割となり、年商は五千万円になった。金屏風の販売統計が無いため正確ではないが、全国のマーケットは年間一億五千万円と推測されている。浅井のシェアは三十%を越したが、同業者が廃業していくためこれからもシェアは伸び、日本一となるのも遠いことではなくなった。
● これからの展開
次に狙っている商品は「掛軸」である。古臭いと思われる掛軸をIT技術のインターネットを利用して、消費者に通信販売することにした。新旧の意外な組合せで掛軸が本当に売れるのか、と疑問に思われるかもしれない。しかし、若い人は敷居の高い美術商や骨董店を嫌がり、明朗価格のインターネットを好むようである。掛軸の通信販売は平成十五年から始めたが、二年目には年商三千万円になった。掛軸の販売でも日本一となるのが浅井の夢である。