プロ用の金槌の専業メーカーです。
安い中国製に対抗して高級品を狙っています。
● 金槌は道具箱の必需品
住宅の建築や木製品の製作で、材木と材木を結合するためには釘が使われる。釘を打つためには金槌が必要となり、職人の道具箱には鋸、鉋と共に必ず金槌が収められている。(職人が使うものは玄能と呼ばれるが、ここでは金槌と呼ぶことにする)
金槌は円筒形の鋼(頭と呼ぶ)に四角い穴を明け、この穴に樫材の柄を嵌め込んだ単純な構造である。頭の製造は比較的単純で、定寸に切断した丸鋼を加熱してハンマーで叩いて鍛造し、タガネで中央に四角い穴を開ける。この頭を加熱して油などで急冷して焼き入れすれば完成する。この工程は江戸時代から三十年程前まで大きく変わっておらず、昔は全国各地に専門の鍛冶屋がいて、地元の注文に応じて金槌を製造していた。昭和四十年頃には一人親方の零細な工場を含めて全国に三百社が存在したようで、三条市にも八十社ほどが活動していたという。
だが、東南アジアから大量の金槌が輸入され、アマチュア向けにホームセンターで安価に売られるようになってきたことから国内のメーカーは激減した。現在、国内で金槌を製造している大手メーカーは三社だけである。その一社が三条市にある須佐製作所(須佐武志社長)である。(現在も手作りの職人芸で製造している業者は十社程あるらしいが、販売額は微小)
須佐製作所では大工などの職人を顧客対象とし、和式と呼ばれる金槌の市場占有率では国内の七十%のシェアを誇っている。なお、同業者は東大阪市と三木市にそれぞれ一社づつ存在するが、これらは頭と柄が金属でできた洋式と呼ばれる製品が主流であり、輸出に力を入れているため市場では競合しない。
● 職人から商人への転換
須佐製作所は、昭和十年に初代社長の須佐作太郎が創業し、兄弟で工場を運営していた。戦時中は一時金槌の製造を休止していたが、戦後すぐに復興した。しかし、昭和二十一年に作太郎は工場設備、経営権の全てを兄弟に譲り渡し、一から出直すことにした。これは経営の方針を根本的に変え、金槌職人からの脱皮であった。金槌の製造では、技術を覚えていれば工場にはさほど大きな機械は不要であり、投下資本は僅かである。従業員も少数ですみ、極端なことを言えば、夫婦二人でも製造することができる。製造した金槌は地場の問屋に納品し、月末に清算するのが習慣であった。この経営は堅実なのだが、地場だけのマーケットであるため成長が見込めない。また、当時の経営者は、日銭を稼ぐことができれば十分だ、という保守的な考えがあった。
作太郎は東京、大阪の問屋を回り、県外に新たな商圏を開拓して三条から出荷することにした。戦後の復興期であるため、都会では大工道具の金槌が飛ぶように売れ、思惑が当たった。販路が広がっていったが、営業の拡大に比例して頭の種類を多くする必要がでた。現在でもそうであるが、金槌の頭は全国共通ではなく、北海道型、関東型、関西型、岩国型などの地方によって形が異なっている。地方文化の相違により頭は地方ごとに独特の形があり、親方が使っていた形が弟子に受け継がれているからである。また、瓦、タイル、型枠などの職種によっても重量、寸法が違うものであった。全国の職人に利用してもらうために、各地の特徴にあわせて多数種類の頭を製造していくことになった。この種類の豊富さが全国の職人を制覇する要因となった。地元の同業者が先細りになっていくのに比べ、須佐製作所の販路は全国に広がっていった。
● 技術の革新
初代社長は販路を全国に求めたが、二代目社長となった息子の須佐修身は量産のための新技術の導入を図った。それまでの金槌の製造では職人による手作業に頼っていて、一人が一日五十個程度を生産するのが限度であり、手作りのため製品にバラツキが出やすいものであった。昭和四十七年から型打ち鍛造を導入し、量産化と均質化を図ることにした。型打ち鍛造では、金槌の形状をした型の中に加熱した丸鋼を入れ、油圧プレス機で打ち込むことで外形を形成すると同時に柄を入れる穴を開口することができる。その頃の三条市には型打ち鍛造の技術が無く、技術を習得するまでに二、三年の年月がかかった。次いで、昭和五十一年からは高周波加熱による焼き入れを開始した。職人の勘に頼る焼き入れでは製品にムラが出るが、この方法では頭の硬度を一定にして品質を高めることができた。
三代目社長の須佐武志(修身の弟)は商品の企画化に取り組んだ。あまり知られていないが、昭和四十八年頃までは職人向けの金槌は頭だけが販売されていた。職人は柄を自作し、頭に嵌め込んで自分好みの金槌に仕立てていた。江戸時代からの習慣であったが、時代の趨勢で職人も直ぐに使える完成品を求める傾向が強くなった。木製の柄は使う職人の好み、使用目的によって長さ、太さが微妙に異なっている。武志は全国の問屋に営業にでかけながら、その地方の職人が好む柄の情報を集めることにし、各地の職人が使っている多種類の柄を揃えることにした。現在では、頭の種類は百種類以上、柄も数十種類となり、頭と柄の組合せでは数百種類の金槌を用意できるまでになった。これだけの多種類の金槌を在庫しているのは須佐製作所だけであり、どんな職人からの依頼にも対応できる体制が強みとなった。
小さな企業が金槌だけを七十年も製造して続けることができたのは驚異的なことである。同業者が雲散していく中で須佐製作所が生き残ることができたのは、親子二代にわたる「職人気質という旧い体質からの脱皮」と「技術の近代化」という目的があったからである。
● これからの展開
近年はプレカット工法やツーバイフォー工法などの新しい建築工法が盛んになり、現場で釘を使うことが少なくなってきた。今後は金槌の販売は減ると予想されるため、須佐製作所では金槌の製造技術を転用した園芸道具や佐官用具の開発を行い、商品群を増やしていく予定である。また、「王将の金槌」を指名買いして貰えるように、ブランドの知名度を上げる計画である。