革を使ったキーホルダーで、立体的なのが特徴です。
純日本製にこだわった作品で、細かな細工があります。
● 革は人類最初の素材
原始時代に人類が身に付けた衣類の素材は革であった。布などを身にまとうようになったのはずっと後年のことであり、人と革は数千年の長い付き合いがある。なめした革は丈夫でしなやかであり、加工が比較的簡単なことから、合成繊維であふれた現在でも各種の製品に利用されている。
革を素材にしたアクセサリーも製造されており、どこの国でも地方色のある商品があって珍しいものではないが、それらは平面的なものである。船橋市にあるバンカクラフト(田中真知子社長)は、立体的な革のアクセサリー類を製造している国内で唯一の会社である。
● モノ造りの血筋
社内で商品企画とデザインを担当している田中滋朗会長(社長の夫)は親子三代にわたるモノ造りの家系である。祖父は明治期に浅草で小間物問屋を経営していたが、フランス製の造花に関心を持ち、製造方法を研究していた。苦心の末に髪飾りやブローチの量産に成功し、当時は珍しい洋風であったため爆発的に売れた。明治大正期には三越にも納入し、アクセサリーの萬家本舗として一世を風靡していた。大正末期に祖父が亡くなり、経営が父親に譲られたが、戦災で工場などを消失したため暫くは休止した後、昭和二十五年頃から製造を再開した。父親も研究熱心で、毛糸を花弁のように配置した向日葵のブローチを開発した。新鮮なデザインであったため、映画に出演した女優が身に付けたこともあり、古い映画雑誌などで見かけることもできるという。
昭和三十五年に大学を卒業した会長はサラリーマンになろうかと考えたが、結局父親の家業を継ぐことにした。先祖からの職人の血筋が流れていて、モノ造りには人一倍の関心があったからだ。だが、父親と同じ商品を製作したくない、という気概は持っていた。家業を手伝いながら、自分自身のオリジナルの商品を捜す時期が続くことになった。
● 製品の開発
昭和四十年頃にルームアクセサリーの売れ行きが伸び、少し実用的な商品が売りやすい風潮にあることに気がついた。その頃出回り始めたジーンズの布地を厚紙に貼り、レターボックス、小物入れなどを開発した。ウエスタン映画が流行りはじめた頃であり、西部劇の主人公がはくジーンズと同じ色であることから大ヒットした。昭和四十六年から数年間はヨーロッパにも輸出することができ、年商は一億円を越した。この商品を製造していた時、商品の一部にアクセントとして革の部材を使うことがあり、これが会長が革と出会ったキッカケとなった。
革素材の業者から加工方法の知識を入手し、昭和五十五年から小銭入れ、ブックカバー、靴べら、バッグなどを製造した。素人による製作であるが、雑な作りが素朴さを感じさせ、そこそこは販売できた。だが、数年後には限界を感じて方向転換を図ることにした。革細工には歴史も技術もあり、バッグや靴などの実用品の業界には優れた企業が多く、新参者にはとても敵わなかったからである。企画対象を非実用的な商品に絞り、かつ、使っていて楽しいものをに限ることにした。前後して、会長は革を立体的に加工する技術を編み出した。製造ノウハウは秘密であるが、革を乾燥させて立体的な形状に固化させることが特色である。この技法により革で細かい細工が可能となり、アクセサリーの製造には最適であった。
先ず、スルメや鰺の形をしたキーホルダーを試作し、みやげ物問屋を通じて全国の観光地で販売することにした。立体形の革製品は珍しいので評判が良く、平成元年からは魚シリーズとして三十種類以上をデザインし、年間二百万個を量産するまでとなり、年商は三億六千万円にもなった。
● 直販の模索
ブームは数年間続いたが、会長は問屋との付き合いを煩わしく感じるようになった。問屋は売上げを伸ばすために大量の商品を発注し、全国で一斉に販売するためブームが去るのが早くなる。また、売れ筋であれば問屋が他社に類似品を製造させる悪習慣もあった。高度な技術で革製品を製造していきたい会長の意気込みとは逆であった。悪しきサイクルから脱却するため、問屋とは絶縁して小売店に直接販売する方針にした。
小売店の開拓では平成八年から見本市を利用し、会場で小売店にカタログを渡して通信販売に徹することにした。取引の条件は極めて単純で、卸値は一律に定価の六十60%とし、返品は認めないとした。また、大量に発注されても注文を断ることにした。生産能力が小さいため、良質の商品を細く長く販売していくために必要な措置である。
現在の商品群はキーホルダー、携帯ストラップ、マスコットなどの小物が主流で、単価は八百円から千五百円程度とプラスチックの量産品に比べると高い。しかし、安価なアクセサリーを販売する店とは一線を画した、高級指向の小売店では納得できる価格である。それぞれの商品群には、動物、魚、干支、乗物などをデザインしてシリーズ化し、全部で八百種類以上を揃えるまでになった。これらの革製品を総括して「革物語」と名付け、オリジナルブランドに育て上げることができた。
● これからの展開
アクセサリーという非実用の分野ではブームの波が激しいが、会長自身は四十年近くも資金や仕事で困った体験をしたことがないという。その秘訣は従業員を五名以下とし、パートや内職を活用して会社を大きくしないことである。仕事が少なくなったときは内職への外注を減らし、仕事量の調整を図るようにした。同時に、ブームが去って売上が落ち込んで時間の余裕ができたなら、会長は次に売れる商品の開発に没頭することにした。アイデアが勝負のアクセサリー業界で長く経営できたのは、ブームの波を利用し、早い時期に次の波に乗るための努力をしてきたからである。
また、会長は中国から輸入される安価なアクセサリーを恐れていない。手先の器用な日本人が作るアクセサリーには可愛らしい雰囲気があり、それは外国製では真似することができない。高級路線を維持した国産品にこだわることで、これからもバンカクラフトは継続することであろう。